蜀の武将

諸葛亮
諸葛 孔明 ショカツリョウ
(コウメイ)
劉備→蜀 181年〜234年 忠武侯 琅邪郡陽都?
諸葛豊・・・諸葛珪━┳━諸葛瑾━━━諸葛恪
     
      ┣━諸葛亮━━━諸葛瞻━┳━諸葛尚
     
               ─────┗━諸葛京
     
      ┣━諸葛均
     
      ┗━
     
┣・・・━━━諸葛誕
     
諸葛玄
性格
参戦した戦闘
軍師中郎将→軍師将軍、左将軍府事→丞相、録尚書事→
武郷侯、開府治事、益州牧→右将軍↓→丞相
名軍師?というよりは名政治家。主に、内政・外交・立法面において活躍。
(正史)
身長は、8尺
後漢の諸葛豊を祖先とし、幼い頃、徐州から弟の諸葛均と叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住。
異母兄弟の諸葛瑾とはこの頃既に別れていたようである。
その後、荊州を拠点とする。
荊州において、友人の崔州平や徐庶と交流を深める。
また、黄承彦の娘の黄月英を娶る。
その後、友人の徐庶が劉備に仕官し、諸葛亮を推挙する。
劉備は自ら3度赴いて諸葛亮は遂に劉備に仕官することを決意する。曰く「三顧の礼」である。
諸葛亮は劉備に「天下三分の計」を説く。
208年、曹操が南下を開始すると、すぐに、孫権との同盟を画策。
孫権陣営から赴いた魯粛とともに、孫権のもとに赴き孫権を対曹操に説き伏せ、同盟を締結。
赤壁の戦いが終結すると隙を突いて荊州南部の四郡を占領。
孔明は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たる。
211年、益州の劉璋が張魯から国を守るため、援軍を要請してきた。
これを契機に益州を乗っ取るべきだと進言。軍師として[广龍]統を付ける。
しかし、益州において[广龍]統が戦死。援軍として益州へ赴くこととなる。
214年、劉備が益州を平定。軍師将軍、左将軍府事となる。
220年、劉備が蜀帝となると丞相、録尚書事となる。
223年、劉備病没。病の床にあって、諸葛亮に託した遺言はもし後継者(劉禅)に不足があれば諸葛亮に皇帝となるよう薦めるものであった。諸葛亮は涙を流しながら忠誠を誓ったという。
劉禅が皇帝となると諸葛亮は、武郷侯、開府治事、益州牧となる。
孫権と同盟関係を修繕し、魏に対する北伐を考案する。
225年、南において雍?が反乱を起こすとこれを鎮圧。
227年、出師の表を上奏。第1次北伐を提案。
魏将にして、元蜀将の孟達を寝返らせようとするが司馬懿により妨害される。
228年、第1次北伐を敢行。
魏延の長安奇襲案を一蹴し、南安・天水・安定の三郡を手中に収める。
しかし、街亭の戦いにおいて、派遣した馬謖の失態で街亭から撤退を余儀なくされる。
諸葛亮は「泣いて馬謖を斬る」。自らも丞相から右将軍に降格。
229年、第2次北伐を敢行。
後出師の表を上奏(諸葛亮作かは疑問)し、北伐を行うが、曹真を敗れず、食糧難で撤退。
230年、第3時北伐を敢行。
武都・陰平を平定し、丞相となる。
231年、第4時北伐を敢行。食糧不足により撤退し、その原因を作った李厳を庶民に降格する。
234年、第5次北伐を敢行。
五丈原の戦いにおいて、司馬懿と対決。終始防衛に徹する司馬懿を攻略できず、陣中にて病没。
234年8月23日のことであった。
蜀軍が引き上げた後の陣地跡を見た司馬懿は陣地の素晴らしさに、天下の奇才なり、と驚嘆したという。
孔明は、漢中の定軍山に葬られた。遺言により質素な墓とされた。
(演義)
(私見)
政治家としては一流である。圧倒的に不利な立場の劉備軍を孫権軍と同盟させたり、益州の内政を整え、五度の北伐を敢行しながらも余力を残せたという点において、高く評価すべきである。発明家としての才能もあったようで筒袖鎧、銅弩機をはじめとする数々の発明品を作ったらしい。(黄月英が作ったという説も)一方、戦闘面においては際立った活躍は無い。唯一勝ったと言える戦いは南征ぐらいであるが、これは敵方に智謀を持つ軍師系の人間がいなかったことが原因である。軍略書は読んでいたであろうが、能力的には決して高いとは言えない。人を見る目もあまりなかったようである。

魏延
文長 ギエン(ブンチョウ)
(劉表→韓玄→)
劉備→蜀
?年〜234年 義陽郡
?
性格
参戦した戦闘
隊長格→牙門将軍→督漢中・鎮遠将軍・漢中太守→鎮北将軍→都亭侯→
督前部・丞相司馬・涼州刺史
(正史)
劉備配下。
益州攻略で戦功を挙げ、、牙門将軍に昇進。劉備入蜀後、督漢中・鎮遠将軍・漢中太守となる。
蜀建国後、鎮北将軍に昇任し、その後、都亭侯となる。
諸葛亮の北伐に従軍し、督前部となり、丞相司馬・涼州刺史を兼任する。
その後、魏の費瑤・郭淮を撃破。前軍師・征西将軍・南[奠β]侯となる。
諸葛亮の北伐の際、長安奇襲策を採らない諸葛亮と対立。又、自身の武勇を誇り、楊儀と対立。
楊儀の参謀としての才と魏延の武勇を必要としていた諸葛亮は常々、両者が互いに憎みあっていることを残念に思っていた。
諸葛亮が北伐の最中に陣没すると、魏延を殿軍に撤退案が出されるが、魏延は一蹴。しかし、楊儀らは軍をまとめて撤退したので魏延を怒り、楊儀の退路を塞ぐ。
両者が互いに相手を反逆者だと劉禅に言上したので劉禅が董允・蒋[王宛]に問うと両者は魏延が怪しいと奏上。
魏延は楊儀の軍を足止めするが、楊儀軍の王平に非を諭された部下の兵がこぞって投降し、逃げようとしたが馬岱に斬り殺された。

(演義)
(私見)
はっきり言って相当可愛そうな人。人望が無かったせいだろうか?原因は諸葛亮にありそうだが・・・。そもそも諸葛亮と劉備との人選に関しての価値観は随分違う気がする。魏延然り、馬謖然り。全部諸葛亮のミス。劉備が長生きしていれば魏攻略にもっと活躍できたかもしれない。
姜維
伯約 キョウイ(ハクヤク)
魏→蜀 202年〜264年 天水郡冀県
姜冏━━━姜維━━━?(ケ艾の部下により殺害?)
性格
参戦した戦闘
中監軍、征西将軍→大将軍
(正史)
幼少の際、父親が異民族の反乱鎮圧に従軍して戦死し、母親に育てられる。
馬遵により、父の代わりに中郎の位を与えられ、成人すると魏に仕えた。

諸葛亮の北伐の際、馬遵に内通を疑われ、出奔。
街亭の戦いにおいて、敗走する蜀軍に巻き込まれる形で蜀に行き、仕える。諸葛亮にその才を賞され、母親が魏に捕まっても戻らなかった。
諸葛亮の北伐に従軍し、戦功を挙げ、中監軍、征西将軍となる。
諸葛亮死後、蜀軍を統率し、費[ネ'韋]の死後は大将軍となり北伐を指揮。
しかし、魏将ケ艾に幾度も敗れ、国力を疲弊させ、また、政治を無視したために、劉禅の身辺に悪官が蔓延った。
魏将鍾会が攻め込んでくるとこれに抵抗するが、ケ艾により成都を攻略され、劉禅が降伏したので鍾会に降伏。
蜀の復興を企て、鍾会を唆し、ケ艾を捕らえさせ、鍾会が魏に謀反すると従ったが、ケ艾の部下により殺害される。

(演義)
(私見)
[广龍]統
[广龍] 士元 ホウトウ(シゲン)
劉備 178年〜213年 靖侯 出身『演義』
?([广龍]徳一族)━━━[广龍]統━━━?宏
性格
参戦した戦闘
功曹→耒陽県令→治中従事→軍師中朗将→関内侯
(正史)
若いころは容貌が劣っていたため、誰からも評価されなかった。
十七歳のとき潁川郡の司馬徽が人物評価に優れていると聞き、会いに行く。司馬徽はホウ統を高く評価し、南方の人物のうち第一人者になるだろうと述べた。これより有名となり郡の功曹に任命された。
自らもも人物鑑定を好み、才能ある者の育成に尽力。
南郡太守周瑜が死去すると、遺骸輸送のため呉に赴き、その地で陸勣・顧劭・全jらと交友を深める。
劉備は南荊州を支配するとホウ統に耒陽県令を代行させたが、仕事が遅々として進まず、罷免する。
これを聞いて呉の魯粛が「ホウ統は治中・別駕などの大役を任せてこそ才能を発揮する人物です」という手紙を劉備に送り、また諸葛亮も重用を勧めた。劉備は自ら会い、ホウ統の才を高く評価し、治中従事に抜擢する。その後軍師中朗将となる。
劉備に益州奪取を進言し、劉備を説き伏せ、益州攻略を進める。
劉璋が劉備と会見した際、、劉璋暗殺を劉備に勧めたが受け入れられなかった。
その後、劉備に楊懐・高沛を騙し討ちにさせ、ともに成都に攻め上った。
劉備が戦勝を喜び酒宴を開いたので、仁者の道を説き、諫める。
さらに進軍して城を囲んだ際、流れ矢に当たって戦死した。劉備はその死をいたく嘆いた。
死後に、関内侯をとされる。

(演義)
(私見)